沖縄慰霊の日の本日、茨城つくばに行ってきました。
私の父は第二次大戦で中国戦線に従軍し、軽機関銃兵として逆V字型の戦列の先頭に立ち、機関銃を撃ち、敵弾を浴びました。
その時に受けた腕の傷を、一度だけ私に見せました。が、それ以外戦争の恐ろしさについて話すことはありませんでした。
人を憎んだり蔑んだりすることは、実は簡単なことです。何故かというとそれをすることで自分が「正義」であると錯覚できるからです。しかしそれはあくまで錯覚であり、そして人として恥ずべき事なのです。
差別。虐待。無視。いじめ。
人を憎むこともそれと同じ延長にあります。
一方、他者を愛することは、簡単なようでいて、実は非常に難しいことなのです。自分と相手を同じレベルで見られるからこそ、愛することができる。時としてそれは嫉妬や羨望を伴い、心の葛藤を生み、苦しみを生む。しかしそうやって苦しむからこそ、相手への敬意、愛情、感謝、許しの心が芽生えて来る。その芽生えこそ、「愛情」の始まりであり、愛情を持つことこそが人が人である所以なのだと思います。
愛のために、人は死ぬことができます。例えば、子供のためなら、多くの人は自分が死んでも構わないと思っているでしょう。
でも、憎しみのためには、人は自分では死ねない。逆に憎しみのために、人は鬼畜となり他人を殺すことができる。
それをお互いにすることを国が許容する行為が、戦争でしょう。
何も生まない、破壊だけの行為。憎しみの心を満たすだけの行為。それが戦争です。
実際、80年前の日本は、それを国を挙げてやっていた。
無垢の善良の命を無残に砕いてしまった。
たった80年前のことです。

そして今この時、地球の別の場所では、同じ行為が行われている。他人事ではない。いまそこで、すぐそこで行われている。自分の父の時代にはこの日本でそれが行われていた。いや、その憎しみの延長の行為は、日々今ここでも行われている。
いくら技術が進歩しても、科学が命まで作れるようになっても、人間はこの愚かな行為をやめられない。
何故やめられないか。
弱いからです。小さいからです。いまそこのあなたが、別のあなたが、弱くて小さいからです。だから言葉だけ勇ましく、さも強そうに振舞って、結局他者を生かすことが出来ない。殺すことしかしない。その小ささ、弱さが、他者を殺す行為の根源だと気がつかないで。

今日つくばで食べたのは、このチョコレートのケーキ。
こんな美味しいものを、人は作ることが出来ます。
これを食べて、難しい顔をする人などいない。皆微笑みながら食べるでしょう。
これが作れるなら、笑顔で食べられるなら、平和な世界も作れると思います。
同じ食べ物屋で生計を立てる自分も、笑顔で食べていただけるキムチを作っていかなくてはと思います。
自分は非力ではあるけれど、せめて人様より上手にできるこのキムチの道で、穏やかな世の中に貢献できたらと思います。
コメント